思考法

変えられないことは手放そう

「現実」と戦わない

病気になる前、私は周りにいるたくさんの人と比較ばかりしていました。

あの人ができるのだから私もできるはず、あれもこれもそれもいい、そうなったらいいな、でも私にできるのかな、などと比較と可能性の妄想の海を漂っていました。

入院して首から下がほとんど動かなくなると、動けるという普通のことができることのありがたさが身に沁みました。

そして当然ながら、「また元のように動けるようになりたい」と強く思うようになり、回復していった人たちを車椅子からの低い目線で見上げていました。そして、すぐに自分のするべきことに戻りました。

病気になる前と同じ比較をしているようにも見えますが、違うところがありました。

それは、自分を取り巻くあらゆる制限や状況、身体の状態などのうち、当時の自分の力でどうにも変えられないものは、手放し始めていたからです。より正確に正直に言えば、本当に変えられなかったからです。

そして、どうにもできないものや必要のないものは追わないことで、人生は混沌として複雑に絡み合ったものから、とてもシンプルになり、清々しい気持ちさえしていました。

図らずも、病というザルが粗雑で必要でないものを振り落として、私にとって本当に大切なもの、必要なものだけを手元に残してくれました。

麻痺した身体をいくらこの瞬間に変えようとしても、動くことを望んでも、今動かないものは動きません。それは諦めとは違います。

現実の身体の状態を受け止めて、「動けないのは本当に悲しい。でも今は治療やリハビリを続けて、少しでも回復につなげることをやっていくしかないのだ」と深く受け止めて、自己憐憫に浸ったり、悲劇の役者を演じてみたり、被害者意識で嘆いたりする世界にできるだけ留まりません。

そして、ただ、今自分ができることをする、やり続ける、それだけをしていました。未来を憂いたり、過去を悔やんだりせず、今ここにいる状態をできるだけ保っていたのです。

自分にストレスや苦しみをもたらす考えを見つけ、それに対する問いかけを通じて問題を解決していく「ワーク」の創始者、バイロン・ケイティさんはこう言っています(1)。

「あるがままの現実を認めず、変わって欲しいと望むのは、猫にワンと吠えるように教えるのと同じことです。どんなに試したところで、猫はニャーと鳴くばかり。現実が変わる見込みはありません」

そして、自分以外の誰かや何かが変わらなければいけないと信じている時、人は分離や苦しみ、痛みを感じるのだと言います。

苦しみの原因となるのは、考えそのものではなく、考えについて探求することなく思い込んでしまうこと、つまり、その考えに執着してしまうことにあると述べています。

「手放す」ということ

困難や逆境にあると、私たちはありもしない非現実的な期待をしてしまうことがあります。

それが地に足のついた希望という光であればいいのですが、他者や状況を一方的に変えようとしたり、目の前のことにそっぽを向いて、棚からぼた餅的な非現実的な期待や妄想、また悲劇的なドラマにとらわれてしまうと、その状況から抜けられなくなり、乗り越えるまでに長い年月がかかることもあります。

映画「フォレスト・ガンプ」で、戦線で負傷して主人公フォレストに助けられたダン中尉が、戦場で失った両足をフォレストに見せながら激しく詰め寄って言います。

「いいか、ようく聞いとけ。人間には運命ってのがある。生まれながらに運命は決まってるんだ。あの時、俺は部下と死ぬ運命だった。なのに今は情けない役立たずだ。生きてる人形だよ。見ろ、ほら、よく見ろ。分かるか、足を使えない体がどんなものか、お前に分かるか!」

その後、戦争が終わり、久しぶりに再会したダン中尉は酒に溺れ、失ったものから立ち直れずに自暴自棄になっていました。胸が痛むシーンです。
そんなダン中尉もフォレストとエビ漁に出かけた激しい台風の夜に、自分の中にあったわだかまりをすべて吐き出して解放し、自身を襲った不遇も自分の体も全て受け入れます。

あなたが直面している人生の困難では、何かを失ったり、何かが自分のもとを去っていくこともあるかもしれません。
それは、ダン中尉のように、自分の肉体の一部や健康かもしれませんし、家族、パートナー、友人、仕事、お金、地位、信頼、愛情、コミュニティーなどかもしれません。

失うことは誰でも恐ろしいものです。それがあった時の豊かで愛に満ちた記憶があるからです。それを経験した過去と今の自分を比較してしまうからです。
その痛みはあまりに大きいので、なかったことにしようとしたり、見ないようにしたり、刹那的で衝動的な欲求にまかせて自分を見失ってしまうことさえあるかもしれません。

それが自分にとって大切なことであれば、できる限りのことをして対処するでしょう。
でも、もし万が一失ってしまったら、いつの日かそれを受け入れて、手放すことがどうしても必要なのかもしれません。
そうすることで、ようやく止まった時間が動き出し、人生が進み出すからです。そして、手放した後には、失ったと思っていたその背後で得ていたものがあったことに気づいたり、その扉の先に待ち受けている恵みに感謝して、私たちはようやく癒されます。

埋める力

ある国の地方に住む猿は、村人が仕掛けたひょうたんの中の米粒欲しさに、一旦手を入れてわしづかみにすると、拳を握りしめたまま抜けられずに、いともたやすく捕らえられてしまうのだそうです。

握りしめたまま離さなければ、新しいものを掴むこともできませんし、この猿のように掴んだものに囚われてしまいます。
もしかしたら、手放すという行為は、進化の過程でヒトだけが持つことになった高次な性質なのかもしれません。

中学校の教諭としてクラブ活動の指導中、頚椎を損傷してしまい、首から下が動かせなくなるという障害を負いながら、その後、口に筆をくわえて数々の詩画を発表されている星野富弘さんが、詩画集の中で次のように綴っています(2)。

「失われたところは、いつまでも穴があきっぱなしではないのである。穴を覆うために、人は知らず知らず失った以上にたくさんのものを、そこにうめあわせる技を、神さまから授かっている」

アリストテレスは、「自然は真空を嫌う」と言いました。真空つまりスペースは埋められるためにあります。

自分の力では変えられないものやできないものを自ら手放すことで初めて、空いたそのスペースを埋めるようにして、今後の生き方を左右するような気づきや許し、機会やチャンス、癒しがやって来るのではないでしょうか。

私たちには、失ったと思っていたスペースや穴を埋め合わせる力がもともと備わっています。そして、それは困難や逆境を乗り越える力となり、新たな人生の大切なピースとなって埋められていきます。
こうして織りなされる壮大なパズルの果てしない連続が人生という旅路の真実なのかもしれません。


(1)「ザ・ワーク 人生を変える4つの質問」(バイロン・ケイティ著、ダイヤモンド社)
(2)「いのちより大切なもの」(星野富弘著、いのちのことば社)