価値観

「制限」が価値観を教えてくれる

「制限」が教えてくれたこと

入院してから何ヶ月もの間、私にはたくさんの「制限」がありました。

ベッドを含む私の居場所は二畳あまり。自分では起き上がれず、車椅子に乗せてもらっても、手足の麻痺のため移動もほとんどできず、体力も極端にない状態でした。かといって同じ姿勢を取っていると、体の重みで痛くなってしまい、床ずれにならぬように体の向きを変えてもらっていました。

ですから、気晴らしに外の空気を吸うことも、売店で何かを買いたいと思ってもたどり着くことさえできませんでした。用を足そうにも、下着を降ろしてお尻を拭くことさえ人にお願いしなければなりません。

麻痺した体の血流を良くするためには、座っている時間を作ることが必要でしたが、数十分もすると足の痺れが痛みに変わって耐えられなくなり、ベッドに戻らねばならない有様。

何か些細なことでも思った通りにできる、ということがいかに素晴らしいことなのか、これほどまでに感じたことはありませんでした。ただただ時間だけは過ぎていき、無力感と閉塞感が私を襲いました。

それから月日が経って指先が少しずつ動くようになると、変化が訪れました。工夫をすれば本のページをめくれることに気づいたのです。それはもう、水を得た魚のように貪るように読み始めました。そして、座ってからやって来る痛みを紛らわせる解決策として、本を読むことにしたのです。

その効果はてき面で、座っていられる時間はどんどん伸びていきました。本の世界に入って没頭していると、痛みは和らぎ、消えることさえもあり、何かを学ぶことの無上の喜びを味わっていました。

この頃ちょうど、吉田松蔭さんが牢に入れられたときの話を読みました(1)。

松蔭さんは金子重輔さんと伊豆下田に停泊していたアメリカの軍艦に乗り付けて、海外密航をしようとして失敗し、牢に入れられました。そして牢番に、

「行李が流されてしまったので、手元に読み物がない。恐れ入るが、何かお手元の書物を貸してもらえないだろうか」

とお願いしたそうです。お沙汰によっては命を失いかねない状況での言葉にびっくりした牢番に、松蔭さんはこう言います。

「自分がおしおきになるまでにはまだ多少時間があるだろう。それまでは一日の仕事をしなければならない。人間というものは、一日この世に生きておれば、一日の食物を食らい、一日の衣を着、一日の家に住む。それであるから、一日の学問、一日の事業を励んで、天地万物へのご恩を報じなければならない。この儀が納得できたら、是非本を貸してもらいたい」

この言葉に牢番は感心して本を貸します。二人の姿からはやがて処刑に赴くようには見えず、松蔭さんは牢の中でこう言ったそうです。

「金子君、今日この時の読書こそ、本物の学問であるぞ」

私は最後の一文を読み終えると、突然内側からこみ上げてきて頰を伝う涙を抑えることができませんでした。身を任せて、ただじっと感動の波が広がって染み渡っていくのを見届けていました。そして、その言葉は雷のように突然やって来たのです。

「読んだり、学ぶことさえできれば、どんな状況でも私は生きていける」

私にとっての読書は、松蔭さんのものほど覚悟あるものではありませんでしたが、これさえできれば、たとえどんな不自由な環境に置かれようとも、自分は生きていける、そう確信しました。私の中の大切な価値観が涙とともに明らかになり、自分の深いところと一体になったと感じた出来事でした。

多くの「制限」が課されると、そこには自由はなく、できることが少なくなるのは確かです。けれども、その「制限」を越えてもどうしてもしたいことが自然と内側から湧き上がって出てくることがあります。
むしろ、そうした制限の中ですることや、してしまうことこそ、本当の自分の価値観が色濃く反映されていて、私たちを救う力になるのではないでしょうか。

人生の困難には、時間や空間、体力やエネルギー、お金、コミュニケーションなど様々な面において制限されています。しかし、そうした中だからこそ、否応無しに選択や決断を迫られることになり、自分にとって何がいったい大切なことなのかを、気づかせてくれると思うのです。

逆境の中の価値観に気づく

私と同じギランバレー症候群に罹り、その闘病生活を漫画「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!」でユーモアとともに綴った(2)、たむらあやこさんは、もともと漫画家を目指していたわけではなく、看護師をされていて病魔に襲われました。
そして入院中、自分にとって絵を描くことがどれほど大切なことであるかに気づきました。 

それは重い脳障害を負った騎手の男の子に、ありったけの想いを込めて水彩の馬の絵を描いて贈った時のことでした。今まで無反応で動けなかったその子が目をキラキラさせながら自分から動いた姿にたむらさんは感動し、絵の持つ力にますます魅せられていきました。

絵を描くのに四年、漫画を描くのに六年もかかったそうですが、病気による体調不良がいくら続いて倒れても、決してあきらめることはありませんでした。

私はこの想いとパワーの詰まった本から、「自分にも伝えたいことがある」という思いが内側にあることに気づき、病をギフトに変えることのできた体験をお話しするようになりました。私はこの本との出会いにとても感謝しています。

このように、困難や逆境が自分の価値観を再発見する機会になることもあります。また、他の人の確信に満ちた価値観とそれを真っ直ぐに生き抜く姿が、誰かを励ましたり、魂を強く揺さぶることもあるのです。

「制限」の捉え方を変えてみよう

人生の困難がもたらす「制限」に隠された恵みが確かに存在します。このことは「恵みのタネは渦中に生まれている」のブログでも書きました。

そして、こうした厳しい状況の中で極限まで追い詰められたときに、自分自身について、はっと気づくことがあります。困難がなかったら、それほどまでに深く胸に刻まれることはなかった、という類のものであり、自分の核と呼べるようなものです。

自分を取り巻く「制限」の中で、どうしてもそれをやりたいと心から思い、「制限」を突破してやってしまうこと、やってしまっていること、力をくれるもの、そうした中にあなたの大切な価値観のヒントが隠されています。

そして、その揺るぎない価値観が、困難や逆境の中でも、あなたを前に進めてくれ、人生を切り拓いていく力になります。自分自身の真の価値観を知ることができるのも、困難の中の「制限」がもたらしてくれる恵みの一つではないでしょうか。

その価値観はすでにあなた自身が持っていて気づかぬうちに必ず表現しています。そしてある時、「制限」が価値観を思い出させてくれるリマインダーの役目を果たしてくれるのです。

価値観を知ることは、自分自身を知ることにつながります。制限があると、「内側」を知って価値観を知り、制限がなく自由であれば、価値観を「外側」に表現できます。

思い出してください。すべてのことは、あなたのために起こっています。「制限」も然り。例外はありません。

「制限」は、先述のたむらさんや私のように、自分にとって何が本当に大切なのかを教えてくれます。そして、その答えに気づくとき、それは困難を乗り越える力になり、人生の目的につながることさえあります。

自分を取り巻く「制限」に対して不平不満でいっぱいになって、動けなくなってしまったら、一歩引いて次の質問をしてみて下さい。

  1. 「制限」があること自体は、良い悪いではなく、月の満ち欠けや日の出と日没のようなフェーズの1つであって、自分という「内側」を知る人生のフェーズなんだ、と捉えることができたら、どう感じますか?
  2. 「制限」のある間は、困難を乗り越えた後にやって来る「自由」の中で、より深く自分を表現するためのフェーズであるとしたら、あなたのあり方や過ごし方はどう変わりますか?
  3. 今直面している「制限」のお陰で、あなたが得ている恩恵は何でしょうか?
  4. 人間的な成長や人生のスパイスとして「制限」があるとしたら、その意味はどう変わりますか?

無理やり自分を納得させる必要はありません。今はそう思えなくても、いつか必ずわかる時が来るのですから。これは、予習みたいなものです。

先取りして味わってしまうという意味では、「よしゅう」というより、予め祝う、予祝(よしゅく)とも言えそうですね。ぜひ予祝モードで「制限」の捉え方を変えてみて下さい。



(1)人生を創る言葉(渡部昇一著、致知出版社)
(2)ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!(たむらあやこ著、講談社)