とどまる人は過去に執着してしまう

先天的な障害を抱えた子から聞いた話

まだパソコンのキーボードを打つのもおぼつかない有様で、事務作業の訓練を受けていた頃、生まれつき障がいのあるその子は、私のような後天的に障がいを負った人を「中途」と表現しながら、こう言いました。

「やっぱり中途の人のほうが尾をひきますね」

障がいを抱えたたくさんの人たちを見てきてそう感じたそうです。

「僕は生まれたときからこうですから」

とはいえ、私の想像を超える苦難の道であったに違いありません。ですが、屈託のない笑みが魅力の彼には、そうした翳はありません。

隠された恵み

何か自分にとって意味のあることやものがあり、それができた頃の記憶がまだ鮮やかなうちには、どうしても過去の自分と比較してしまいがちです。私もそうでした。前までできていたことが突然できなくなったり、失ったりすると、怒りや情けなさ、喪失感、無力感でいっぱいになります。

でもある人は、やがてそこから抜け出すことができます。一方で強い執着に囚われたままでいると、そこにとどまってしまい新たな人生を踏み出せず、うまく乗り越えることができません。では、どうしたら抜け出せるのでしょうか。

 私は、その困難や逆境の中に多少なりとも意味や恵みを見つけることができるかどうかが鍵を握っていると思っています。

「ええ!恵みだって、冗談でしょう!」

そんな声が聞こえてきそうです。けれども、これは私が病をギフトと言えるようになった経験からの真実です。

例えば、こんな経験をしたことはないでしょうか。
その当時はとても辛く厳しかったことが、後々になって「あの経験をしたからこそ、今の自分がいる」と、はたと気づく経験です。

そう思えた時には、きっとすでに乗り越えていることでしょう。過去の困難の中に意味や恵みを見出しているからこそ、こうした気づきや言葉が自分の中から出てくることがわかっていただけると思います。

今と過去を比較して嘆いている時、それは少し厳しい言い方をすれば、隠された恵みに気づけず、過去の犠牲者に自分を貶めてしまっていると言えるのかもしれません。

そうした隠された意味や恵みに気づくには、人を思慮深くしてくれる時間のはたらきによって徐々に真実のベールが剥がれていって、ようやく分かることもできます。

一方で、積極的に困難に向き合い、受け止めて、その恩恵に気づく、というプロセスを踏むこともできます。向き合うために「尾をひく」期間が必要なこともあるかもしれませんが、渦中にいながらにしてそれに気づく、という選択をすることもできるはずです。

首から下がほとんど麻痺した状態から私が恵みを数えることができたように、それは誰にでもできるのだと信じています。