痛みを感じるときや痛みがやって来るとき、身構えて身体が固くなったり、縮んでしまいますよね?心もオープンというわけにはいかなくなります。
でも、それが自分の人生にとって「必要な痛み」の場合には、感じ切ることでしか前に進めないこともあるでしょう。生命の危険を感じるような痛みはこの限りではないので、全力で回避してくださいね。
しかし必要だったとしても、できればその痛みは避けたい、というのが心情です。私も麻痺の残る足の痺れが痛みに変わると、早くベッドの上にゴロンと横になりたい気持ちになります。
でも実は、痛みを避けるのではなく、身を委ねて痛みの中に入ってしまうことで、和らぐことがあるのです。
この記事では、痛みに身を委ねる人体実験を通してわかった、痛みの本質と人生の不思議なしくみについてお伝えしていきます。
この記事を読むと、「痛み」について新たな認識が得られるのと同時に、一時的にでも緩和できる術が分かり、今自分が必要なプロセスにいるのだと理解できるようになります。
身体の痛みが消えた⁈
病が発症して数ヶ月後のことです。
理学療法の先生曰く、「背中全体が一枚の大陸のよう」になってしまい、それを小さく分けていくマッサージをしてもらっていました。
そんな背中を二人で太古の昔存在したとされる巨大大陸になぞらえて、パンゲアと言って笑い合っていました。
けれども、マッサージが始まった途端、これまで味わったことのないあまりの痛さに、私は何度も呻いていました。
そのマッサージがないときには、「あら、今日はおとなしかったのね」と病院のスタッフにいじられるほど声が出てしまっていたのです。耐えきれずに気が遠くなり、失神しかけたこともあります。
私に必要なマッサージだという確信があり、先生を信頼していたので、どうにか続けることができていました。
ある日、いつものように施術をしてもらっているときに、自分の心の動きと身体をじっと観察していて気づきました。
それは、痛い刺激がやってくると思ったそのとき、痛みから避けて身を守ろうと、無意識に身体を小さく固くし、口も結んで待ち受けていたのです。心もそれを耐えようと拒んで閉じられていました。
注射が怖いと泣き叫ぶ小さな子供が、嫌だ嫌だと石のように身体を固くして全力でそこから避けようとする姿にそっくりです。
当たり前といえば当たり前の反応でしたが、このとき、はたと思ったのです。
「もし、すべて受け入れる気持ちでリラックスして委ねるようにマッサージを受けたらどうなるのだろう」と。
その瞬間、想像しただけでも空恐ろしくなりました。身体の力を抜いたら、余計に痛みが増して悲鳴を上げることになるのではないかと思ったからです。
ですが、痛みをこれ以上我慢し続けるのもごめんだったので、生来の実験好きな好奇心が勝って、私は早速挑戦してみることにしました。
意を決し、心を開いて受け入れるように身体を緩ませ、ゆっくり呼吸しながら、マッサージを受けてみました。怖いという気持ちが出てきたら、勇気を出してあえて緩ませることで打ち消します。
するとなんと、痛みがかなり和らいでいるではありませんか!
そこでさらに「すーっ」「はーっ」という呼吸音に集中すると、今度は痛みが消失する瞬間が訪れたのです!
痛みと一緒になると、痛みが去っていきました。これは自分にとって大きな発見でした。
痛みを避けようとして抗おうとするから、痛みはそれを伝えようと躍起になって、さらに強さが増すのかもしれません。その後、身体に必要な痛みが限度を超えそうなときには、このやり方で何度も乗り切ることができました。
痛みの中に入る
この経験から一年以上が経過してから、別の表現で書かれた本に出会いました(1)。
そこでは「痛みの中に入る」と表現されていました。
それは呼吸法のインストラクターの言葉で、呼吸中に苦しくなる場合には
「完全に痛みの中に入り込みなさい。そうすればやがて痛みを超越できるでしょう」
と説明されたそうです。
そしてある晩、パートナーがビジネスの苦境で夜中に震えを止められずにいると、
「痛みをしっかり受け止めて、その中に入りなさい。横になって深く息を吸って、吐いて、完全に痛みの中に入って」
と言って声をかけたのだそうです。
やがて呼吸法を続けて痛み中に入ったパートナーは、穏やかな笑顔になり、痛みの向こう側にある平安と静寂、至福に気づいて眠ったそうです。
身体的なものでも精神的なものでも、やって来る痛みを前にして、私たちはそのダメージを抑えて、身を守ろうとして、無意識に心も身体も固くします。それは、外部からの脅威に備えるために必要な本能です。
また、私たちの身体は、痛みの刺激を脳が感じることで、呼吸、脈拍、血圧、体温をコントロールして生命の機能を維持しています。痛みがあることで、それを与えるものを取り除いたり、避ける行動を促して、QOLを高めるトリガーの働きも持っています。
そうした痛みは、自分の生命を守るために
「自分のどこかに、異常事態が発生しているよ」
と大切なメッセージを運んでくれています。
けれども、こうした緊急事態を想定した「痛み」の戦略が合わないケースもあると思うのです。私たちは、それを乗り越えるために「必要な痛み」が存在することを深いところで知っています。
その場合には、まるで
「自分のここが癒される部分だよ」「そこは大切にしないといけないよ」「本来の自分ではない何かがあるよ」「隠れてもダメ。ここが見えていないよ」「この痛みはダミーだけど気づいてね」
というメッセージを発しているようにも見えます。
「痛みそれ自体は悪いものではなく、今のあなたに必要なので、それを伝えるための刺激として、あなたの心をノックしにやって来ている」
と思えたら、誰よりもあなたをよく知っている友達のように感じられないでしょうか。
痛みの本質を知るために、必要なプロセスにいるのだと思えないでしょうか。
中には、こうして痛みの中に入っていかなければ克服されないものもあると知り、痛みのメッセージの捉え方を変えられれば、乗り越えたり、やり過ごすために必要な他の選択肢や行動をとることができます。
困難と痛み
人生の困難には、人知れぬ痛みがつきものです。身体的なものであれ、精神的なものであれ、痛みの激しさや強さを他者と完全に共有することはできないので、苦悩もより深くなります。
また、心を閉ざしてその痛みから避けていても、胸の奥にしまって一旦ふたをしただけで、ある時ふとした拍子に露わになり、何度も苦しむこともあります。痛みから逃げ続けるほどその存在は雪だるまのように大きくなり、一時的に痛みを忘れさせてくれる中毒的な衝動への欲求が大きくなって苦しむことさえあります。
そうした困難の痛みを感じているときには、避けるのではなく、むしろ正面から向き合いその中に入ってしまうことで、痛みが軽減されたり、痛みの本質がわかったり、その痛みは自分が勝手に肥大化させていた幻想だったと気づいたり、大切なことが見えたりします。
これが、どうやら人生の真実のように思います。
とてもシンプルなのですが、それはとても難しいこと。そのために、「時間」というものがこの世界にあって、私たちは徐々にその真実を知るようにできているのではないでしょうか。
けれども一方で、私たちには、この痛みを「乗り越える力」だけでなく、「逃れる道」も同時に与えられているのだと思います。
「置かれた場所で咲きなさい」がベストセラーとなった、シスターの渡辺和子さんは、修道女としてのアメリカでの修練の中で、現地の修道者が生まれつき持っている信仰の根幹に、次の言葉があることに気づいたそうです(2)。
「神は、その人の力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と逃れる道を備えてくださる」
私が痛みを和らげる方法を知ったように、正面突破するだけではなく、「逃れる道」も用意されているのではないでしょうか。
痛みという激しい風雨に身をさらして、ただ濡れるまま体を打つ雨を感じ、頰を打ち体を揺らす風を聞き、身を委ねて通り過ぎた先に、まるで台風一過の晴天のように、心の平安、至福がやってくるのではないか。
私にやって来た痛みは、そう教えてくれました。
・委ねて痛みの中に入ると、和らぐことがあります。
・痛みをメッセージと捉えると、見方が変わって反応や行動を変えられます。
・私たちには、痛みを「乗り越える力」だけでなく、「逃れる道」も同時に与えられています。
(1)「心に響くことだけをやりなさい!」(ジャネット・アットウッド/クリス・アットウッド著、フォレスト出版)
(2)「面倒だから、しよう」(渡辺和子著、幻冬舎)