思考法

絶望=苦悩マイナス意味

意味が苦悩を越えるとき

 困難には苦悩がつきものですが、私たちはその中で「意味」を見い出すこともできます。そして、その「意味」が希望となって乗り越えていく力になります。

 アウシュビッツを生き延びた精神科医のヴィクトール・E・フランクルさんは、著書の中でこう書いています。

強制収容所を生き残る可能性が最も高かった人は、未来に向かって生きることのできた人たちであった。

それは、いつの日か、この私が帰ってくるのを待っているであろう、達成すべき課題や出会うべき人に向かって生きることができた人たちであり、いつの日かこの私自身によって満たされるべき意味に向かって生きることのできた人たちなのであった。

そして、苦悩はそれ自体では絶望にはなり得ず、意味をもたない苦悩が絶望であると、

「絶望=苦悩マイナス意味」

という式で表現しました。(1)

苦悩よりも自分を超えた外側にある意味が大きくなると、絶望の度合いが小さくなります。さらに、意味が苦悩を越えると、それはもはや絶望ではなくなるということを示しています。

絶望の使者よ、さようなら

 私がまだ寝たきりの時間が長く、車椅子に座り続けるのが難しかった頃、仏教詩人の坂村真民さんの詩に出会いました。

鈍刀をいくら磨いても無駄なことだというが、何もそんなことばに耳を借す必要はない。

せっせと磨くのだ。

刀は光らないかもしれないが、磨く本人が変わってくる。

つまり刀がすまぬすまぬと言いながら、磨く本人を光るものにしてくれるのだ。

 自分の寝たきりという境遇が自分を磨いてくれる。

そう思えて強く印象に残っていたのでしょう、病床で自分の鈍刀を磨きたいとある人にメールを送りました。

すると、文面に思い詰めた様子が漂っていたのか、次のような返信をもらってしまい、かえって心配をかけてしまいました。

「でも人だから人間だから、落ち込むこともあるはず。そのときは人に覚られないようにして、夜、静かに泣くといい」

 その時、疑問に思ったのです。なぜ自分は泣きたい気もしないし、泣かなかったのだろう、と。

それどころではなかった、というのも理由のひとつです。けれども、今客観的に当時の状況を眺めてみても、映画やドラマのように、そんなシーンが入っていてもおかしくはなく、むしろ当然の状態でした。

 しかし、不思議なことに、私は入院や療養中に、悲嘆にくれて枕を涙で濡らすことはなく、自暴自棄にもならず、絶望に至ることもありませんでした。

傷つきやすく、感情の起伏はありましたが、淡々としていました。入院中の様子を聞かれて、ありのままを伝えると、驚く人もいました。

寝たきりの状態で、病に隠された恩恵を数え始めたことは、フランクルさんが言う「意味」をたくさん見つけ出すことにつながっていたのかもしれません。

だから、苦悩に押しつぶされることはなく、絶望の使者はプイとそっぽを向いて、私は回復という希望の道に目を向けていられたのではないかと思います。

フクロウの声の捉え方

 入院中は、寝返りをうてないせいで我慢できないほど体が痛くなり、夜中に何度も体の向きを変えてもらっていました。

少しだけ寝て痛みで起きるサイクル。ぐっすり眠れない日が何ヶ月も続きました。布団さえも重くて身体が痛くなったので、秋も深まり肌寒く感じられる頃でさえ、まだ軽いタオルケットが必要でした。

 しんと静まり返った夜のしじまに押し潰されそうになりながら、息を潜めてじっと堪えていた真夜中のことでした。

 窓の外の田んぼの方から、フクロウの声がホーホーと聞こえてきました。フクロウが羽を休められそうな木は、その辺りにはなかったはずだけれども、と思いつつ、痛みと無力感の中で、もの哀しいけれどよく響く声に耳をすましていました。そしていつの間にか声は消え、私は眠りについていました。

 その時、フクロウを寂しさや不安を呼び起こす招かれざる客としてではなく、夜の友のように感じられたのは、困難に隠された恵みの中に、たくさんの「意味」が見えつつあったからなのではないか、と思っています。

 あなたにとっての「意味」は何でしょうか?

(1)「意味への意志」(ヴィクトール・E・フランクル、春秋社)