ギフト

人生や自分を愛するための出来事がギフト

ギフトの副産物

私がギフト思考によって病をギフトと言えるようになった副産物として、自分のことが以前よりも好きになった、ということがあります。

私のことを、例えば将棋の駒に見立てて、上空から俯瞰してみると、動きはぎこちなく、遠回りも多く、できないこともたくさんあるので、「そんなことはありえない」と思うかもしれません。人と比較してしまうとなおさらです。

けれども、以前の五体満足であったときよりも、今の方がありのままにいることができていて、自分を自分で罵るようなネガティブな内面の思考も減り、自分のことが好きになりました。

つまり外側の駒と見たのではわからない内側の変化があったからです。

それは病気と障がいの日々の中で、自分の中にあるものをいったん一切合切出して、大切なことが何かを受け取れたからなのかもしれません。

こじ開けられた心の扉

入院中、麻痺がひどく一人では何もできなかった頃、トイレでは自分でお尻も拭けず下着もはけずにいたので、看護師さんや助手さんには食べるものから出て行くものまですべて見られてしまっていました。

行動範囲はほとんどベッドの上かリハビリの部屋に限られ、その短い移動ももっぱら車椅子を押してもらい、お風呂では自分で体を洗えないので、まな板の上の鯉のような気持ちで洗ってもらい、服も着せてもらっていました。

夜は巡回があるので、寝息や寝顔、うわ言まで伝わっていたでしょう。まさに頭のてっぺんからつま先までさらけ出されていました。

もう私が人に見せていないのは、頭の中ぐらいなものでした。

誤魔化しようのない状況で、誤魔化す必要もないと知り、閉じられていた心の観音扉が少しずつこじ開けられていきました。

そうして開いた扉のお陰で、生かされていることのありがたみに気づき、自分にとって大切なことが何なのかが見えてきました。

困難とギフトのカラクリ

困難や逆境に遭うと、普段は水面下に潜んでいる自分の感情や思考の癖が顕著に出てきたり、自分の信念に対する思いの深さや大切なものに気づいたり、いざというときに出る自分の力に驚いたりもします。
何をしても、何もしなかったとしても、めいっぱい自分を表現している状態です。
いわば外圧によって、人生や自分という内面の輪郭が浮き彫りになるために、自分自身をより深く知ることになります。

そして、乗り越えたときには、その出来事に感謝し、ありのままの自分を肯定し愛しいと思う状態=ギフトになります。

つまり、人生や自分をより愛するための機会や出来事がギフトであると言えないでしょうか。

とくに困難や逆境は、「ギフト」をより強く濃密に体験できると知っているからこそ、私たちはいつでも、どん底から這い上がる物語に共感し、感動するのでしょう。

人生や自分を愛することを思い出させるために、逆境や困難というイベントがひな形として準備されていて、「ギフト」を経験できるしくみになっている、と言えるのかもしれません。

裏を返せば、本来のあるがままの自分を思い出すことに、それだけの価値を置いている世界に私たちはいる、と言えます。

私たちは深いところでは、このことを知っているのです。
だからこそ、「ようやく気づけたね」と知らせるかのように、私たちはときおり、嬉しいわけではなく、悲しいわけでもない「感謝の涙」を流すのだと思います。