ギフト

ギフト思考で、みんなちがって、みんないい

比較という罠

私がギフト思考によって得られたものに、人と必要以上に比較しないようになったことを挙げることができます。

車椅子でようやく近場を外出できるようになった頃、施設の外にあふれる以前の私、五体満足の楽しそうな人の姿やバリアフリーでない段差などに目がキョロキョロと向いては苦しい気持ちになりました。

立って歩いていた時には気づかなかった、わずかな道路の傾斜にも悪戦苦闘。必死にこいでも思うように進めず、苛立ちと疲れから、しばし手を休めて虚空を見つめました。
そして、弱々しく見られて迷惑をかけてはいけないと、背筋をピンと立てて、前を向いて必死にこぎました。そういう時に限って小さな段差を越えられずにいると、気づかぬ間に通りがかりの人が駆け寄ってきて、助けてくれました。
人の優しさと自分の不甲斐なさがないまぜになって、涙が出そうになったことも一度や二度ではありません。

こんな時に追い討ちをかけるように、過去の自分や周りの人たちと比較をしていたせいで、外の世界が変によそよそしく窮屈なものになっていました。望んでいるはずの外出は落ち着かず、早く帰りたいという気持ちにもよくなりました。

しかし、「自分は自分でいい。このままでいいんだ!」と心から思えるようになったとき、清々しい気持ちで人混みのショッピングセンター街を駆け抜けられるようになりました。
その時にすうっと身体を通り過ぎていった風の気持ち良さを、今でも思い出します。

冒頭の私は、過去の私に戻りたい、という非現実的な期待に取り憑かれて、今と昔の姿を比較し、今の自分をおろそかにして傷つけてしまっていました。

自分を成長させるための適度な比較や競争が必要な場合もあるでしょう。
けれども、そもそも比較競争するその対象が、私の例のように現実的なことなのか、また、本当に自分が心から望んでわくわくすることなのか、あるいは、自分の価値観とぴたりと合致することなのかがとても大切だと思っています。

そうでなければ、うまくやれていたり勝ち続けられるうちはいいものの、負けたり失意のときには必要以上に自分を責め、再起する力が湧いてこない自分をなじり、自分を必要以上に傷つけて小さくしてしまうことがあるからです。

さらに当の本人には、競争するフィールドがそもそも違っていた、という考えさえ浮かんでこないこともよくあることです。また、隣の芝が青く見えただけで本当には望んでいないものをねだったり、羨んだり、できないことを恨んで、他人とやみくもに比較をしても仕方がありません。

比較ゲーム脱出の鍵

私が入院していたとき、首から下の麻痺はあったものの、頭はしっかりと冴えていたので、
「テクノロジーがもっと発達していれば、会社に行かなくとも働くことができる。今はまだ、人が動けないと働けない世の中なんだな」
と心の底で嘆いていました。

非現実的で叶わないことを羨んでも仕方がないのに、こうして誰かや何かと比較してしまうことはよくあります。


そのときの私を救ってくれたのは、自分自身の「価値観」の存在でした。これは図らずも、私を取り巻くあらゆる制限が引き金となって、教えてくれたのでした。

制限があってもやってしまうこと、絶対に譲れないと思うことの中に、私たちが真に大切にしている「価値観」は潜んでいます。

また、復職する前にはこんな不安がありました。
「どうしてもインプットやアウトプットをこれまでと同じ速さでするのは難しい。職場に復帰しても、同僚と比較してできない自分を責めて、早々にやっていけなくなってしまうのではないか」

過去と今の自分を比較したり、周りの人と比べ過ぎると動けなくなってしまいます。
こんな状態に光が差したのは、自分の内なる「情熱」がどこに向いているのかがわかったからでした。「情熱」も「価値観」同様、指紋のように人それぞれです。

両者の違いは、「情熱」は進むべき方向を明確にする「地図」の役目をし、「価値観」は「情熱」が指し示す方向へ進むための「道具」の役割を果たすことです。

このように、人それぞれに「情熱」と「価値観」のユニークな違いがあるからこそ、私たちが唯一無二の存在としてこの世界にいるとは考えられないでしょうか?

私が病になってこうして車椅子に乗り、私にだけの「情熱」と「価値観」を持って、ここに存在していることにも意味があります。

みんなちがって、みんないい

もし、何もかもが全く同じコピーの自分がもう一人いたらどうでしょう。
周りの人は、どちらが本当のあなたなのか見分けることもできないので、あなた自身であることを証明することはできません。
いつも同じ姿で同じことをする二人を見ることになるので、どちらの方が好きという人もいません。コピーが存在した途端、あなたらしさの価値は無くなってしまいます。

優劣で測れない違いがあるからこそ、あなたの存在の表現の仕方が誰にも真似できるものではなく、それがどんなかたちであっても、存在する意味があるとは言えないでしょうか。

わたしと小鳥とすずと

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

「わたしと小鳥とすずと」 金子みすず

金子みすずさんの「みんなちがって、みんないい」という言葉のままに、私も違っていていい、違っているからいいと、ありのままに生きているとき、とても穏やかで、力に溢れていて、内面は満たされています。
だからこそ、周りの人の違いも尊重できます。

自分の「価値観」や「情熱」がわかると、ユニークさが自分にもあるという確信につながり、これが私なんだと自己肯定感が高まったり、感謝の気持ちが起こったり、人とむやみに比較しないでいられるので、とても生きやすくなります。

そして実は、困難を乗り越える大きな原動力にさえもなるのです。